イヴァン4世の後継者であった皇帝フョードル1世はリューリク朝モスクワ大公国の最後のツァーリである(在位:1584年 - 1598年)。信仰熱心であり祈りに熱心なことで知られたフョードル1世の在位下で、独立ロシア正教会のモスクワ府主教座は総主教座に昇格する。ただしフョードル1世はツァーリとしては全く凡庸であり、実権のほぼ全ては貴族間の抗争に勝ち残った、フョードル1世の義兄であったボリス・ゴドゥノフに握られていた。モスクワ府主教座の総主教座への昇格もボリス・ゴドゥノフの意向に沿ったものとみられている。
コンスタンディヌーポリ総主教庁はモスクワ府主教座の総主教座への昇格に対しさしたる難色も示さなかった。
1589年に府主教イオフが、初代モスクワ及び全ルーシの総主教に就任した。ロシア正教会はモスクワの主教座が総主教制をとる事および独立教会としての地位を、コンスタンディヌーポリ総主教イェレミアス2世[14] を始めとした4人の総主教(コンスタンディヌーポリ総主教、アレクサンドリア総主教、アンティオキア総主教、イェルサレム総主教)から承認された。
ロマノフ朝時代
[15] 17世紀以降、1917年のロシア革命まではロマノフ朝の時代である。この時代、ロシア正教会は国家の保護に入り特権的立場を得ると同時に、ツァーリの強力な統制下に置かれた。西欧的な国家改革を目指すツァーリ主導の下でロシア正教会の西欧化が進められていったのもこの時代であるとまとめられる。正教会の西欧化の是非はロシア・ウクライナ地域に限らず、この時代の全正教会にとって最大の問題であり続けた。
ただし、ツァーリの強力な統制も西欧化についても、一様な進行プロセスを辿った訳ではない。そしてその生み出された結果についてのステレオタイプな見解「体制従属的なロシア正教会」「他の正教会に比べて西欧的なロシア正教会」についても、それほど単純なものではない。まずロマノフ朝の出発点は、非常に非力なツァーリから始まっていたことには留意すべきであろう。その正教会との関わりの経緯、その終結点についてはさまざまな見解が存在し、これも同じく単純なものではない。ツァーリの統制が完成するまでのプロセスを、主に以下の点を順に追っていくことで概観するが、あくまで概要でしかないことに注意されたい。
総主教フィラレートによる統治:世俗権力と教会勢力の不均衡
総主教ニーコンによる改革の顛末とその背景
ロマノフ朝がウクライナ西岸を勢力下に置いたことによる西欧化の影響:ブレスト合同とキエフ神学校
伝統を重視する姿勢の二分:古儀式派の発生
ロマネ スラッ ピロシキ 地上SEO 舌切雀 かばいろ ルート マリーゴ ムービン ムレザー カミング モダン フェド セット ライト ヨーガ プティカル パワポ フェイ ひちく 芽ばえ ムーブ 紅い川 キワノ カルソン まだい リリース ヨーソロー ズンバ トアル ヒアシンス ザフスタン おたる あまおう ピンチ カシス ハウス ジョホール スプライ ロード スハマ キャット レディ 葦の恋 セラミック バジル ダーツ 承平上位 チムニ プラセ
世俗権力と教会勢力の不均衡
一定の政治的手腕を有していたボリス・ゴドゥノフであったが、その治世は3年間も続く飢饉などに見舞われ安定しなかった。ボリス・ゴドゥノフの死の前後より、ロシアは後継者を巡って大動乱の時代を迎える。
カトリック国のポーランドが介入して来るに及び(ロシア・ポーランド戦争)モスクワはポーランドに占領されたが、モスクワ総主教ゲルモゲンはモスクワを占領したポーランド人に祝福を与えるのを拒んだ。ポーランドにより獄中に繋がれたモスクワ総主教ゲルモゲンは、混乱していたロシアに回状を出し国土解放を呼びかけた。ロシアではニジニ・ノヴゴロドを中心に国民軍が編成され、ポーランドからモスクワは解放された。
その後モスクワでツァーリに選ばれたのはミハイル・ロマノフであった。ロマノフ朝がここに創始されるが、16歳のミハイル・ロマノフはおとなしい人物であり、実権は貴族たちによる全国会議に握られていた。ツァーリ権力を抑制するという貴族達の意図が働いた人選であった。
このミハイル・ロマノフの父であったロストフ府主教フィラレート(俗名:フョードル・ロマノフ)[17]がゲルモゲン総主教の後継として1619年にモスクワ総主教に着座すると(在任は永眠する1633年まで)、フィラレートは精力的に軍制改革を含むさまざまな世俗面での政治改革を行い。ボリス・ゴドゥノフの死後喪われていたモスクワ大公国の国土回復に力を注いだ。ミハイル・ロマノフ自身の政務への意欲の少なさにも一因のあったこの総主教による政治は、ビザンチン帝国とその正教会の理念であった、世俗権力と教会の調和としての「ビザンチン・ハーモニー」を善しとする後代の正教会関係者から批判されるものである。
貴族たちによるツァーリ権力の抑制、そして総主教フィラレートによる統治にみられるように、17世紀前半には未だツァーリの権力はそれほど絶対的なものではなかったとも言えよう。ただしこうしたビザンチン・ハーモニーの破壊と教会の世俗権力への介入は政教の相互不可侵性を否定した面も有しており、世俗による教会への介入という逆もまた然りとする政治力学を否定するのを難しくする結果も招来した。
ニーコン総主教による改革
ロシア正教会史の中でも特筆される大事件として挙げられることが多い総主教ニーコンによる改革は、特筆されて然るべきさまざまな決定的影響をロシア正教会に残した。この改革に対する評価は賛否両論があり、現代の正教会関係者からも必ずその功罪の両面が挙げられる。その背景と顛末を、概要のみ記す。なお、この改革は宗教改革とは呼ばれない
ブレスト合同とキエフ神学校
17世紀前半まで、キエフを含むウクライナ西岸はポーランド・リトアニア連合の勢力下にあった。すなわちカトリック教会の影響下にあったことになる。同じ時期、カトリック教会にはプロテスタントに対抗する対抗宗教改革が起きており、世俗権力からもローマカトリック教会からも、ウクライナにおける教会をローマ教皇の下に帰属させようとする活発な動きが生じた。1596年にはブレスト合同によりウクライナ東方カトリック教会が成立。現在も存続する、東方典礼を保持しつつローマ教皇の教皇首位権を認める教会である東方典礼カトリック教会のうち最大級の教会がウクライナに誕生した。
これによって、ウクライナに関わるコンスタンディヌーポリ総主教庁の庇護下にあった正教会指導者に生じた潮流は、大きく分けて二つある。一つはキリロス・ルカリス(キリル・ルカリス)(1572年-1638年)[19]にみられる、反ローマカトリック感情からプロテスタントの影響を受け入れる傾向。いま一つはキエフ府主教ペトル・モギラにみられる、ローマカトリックに対抗するためにラテン神学を用いようとする傾向である。しかし両派ともに西欧の神学的な影響を全否定するものではなかった。寧ろ「全否定できなかった」という方が正しい。その要因はさまざまなものがあるが、一つの理由として当時、独自の正教会の学問機関がほぼ皆無であったことが挙げられる。オスマン・トルコ帝国では正教会の教育機関維持は許されず、高位聖職者となる人々はイタリアに行ってラテン語で神学教育を受けるしか高度な教育を受ける方法がなかった。
この時代、聖師父に則った正教会の正統的信仰をまだしも汲むものとして評価されているのは1672年のエルサレム総主教ドシテウスによる信仰告白書であるが、ドシテウスは独学で聖師父神学を学んでいた人物であった。より正教会の伝統的な信仰を明らかにする著作としては、後代アトス山のフィロカリアを待たねばならないとされる。
キエフ府主教ペトル・モギラはカトリック国のポーランド・リトアニア連合の支配下にあって圧倒的ハンディを抱えつつも、1632年、キエフ神学校を設立する。正教会の神品達にラテン的素養を具えさせ、以てカトリックに対抗しようという狙いがあったこの学校の声望はすぐに高まった。しかしながら当然このようなラテン系の術語等を正教に導入する試みは、いかに正教を護るためという善意から出たものであっても、正教会内の伝統を重んじる者達から反発を買うのは自然な流れであった。
ウクライナが1654年に大幅な自治権の保証つきでロシアのツァーリの宗主権を認めポーランド・リトアニア連合の支配から脱出したことで、ロシアと西ウクライナの物流と人の交流は活発化していく。それはモスクワを中心とするロシア正教会に西欧化の波が押し寄せて来ることをも意味した。